エッセイ

鋳造技術研究との関わり・・・・・・・・・・・・・・・・・田賀井篤平

 大学院から一貫してX線や中性子線回折を使った結晶構造解析をやってきて、考古学とは何の接点もなかった私が、まさか、鋳造技術の学会誌の名前に応募し採用されるまでに至るとは想定外でした。
 
学会誌の名前を考えるに当たって頭にあったのは、ヨーロッパの学会誌の多くがラテン語の名前を採用していることです。それは、ヨーロッパでは学問の基盤にラテン語があるからです。例えば、植物も動物も命名はラテン語です(鉱物はラテン語ではありません。これには悲しい物語があるのですが、ここには関係ないので略)。面白かったのは、私がドイツの大学に就職したとき、健康診断が義務づけられており、大学病院に行くと、医者はラテン語を駆使していることでした。日本で医者がかつてはドイツ語を使っていたのと状況は同じで、患者に病名や状況などを悟られないためです。それもあって、学会誌には、なんとかラテン語で“かっこよく”、意味のある名前と考えました。鋳造は、溶解した金属を鋳込むのですから、castfuseという言葉が思い浮かびました。castの語源は北欧のようです。fuseは語源がラテン語fundereで、fundereには融合という意味もあるので、これを基本に考えようと思いました。fundereは学会誌の名前としては、語感がわるいので過去分詞であるFUSUSを選んだと記憶しています。学会が多くの分野を融合して発展することを期待しての意味があります。もちろん「融合」というのは口にするのと違って、そう簡単ではありません。誤解を招くことを承知して言えば、理系の人間に文系のセンスを植え付けるのよりも、文系の人間に理系のセンスを求める方が難しいのではないでしょうか。これは高等学校の段階で理数系と文系を分けて受験させる弊害であると思っています。その上に、大学での「教養」のあり方も問題であるでしょう。大学一年から専門教育を実施するので、「文理融合」を醸成する土壌がないのです。でも、ここを突破しないと、「融合」を必要とする学問領域にブレイクスルーは起きないのではないでしょうか。まずは、理系と文系が等価であるような共同研究を立ち上げ、同じ土俵で議論を重ねて、双方の知識を吸収し合うところから「新しい価値観」の基に研究を始めるべきではないかと思っています。鋳造技術研究は、文理が等価の立場に立つことができるもっとも典型的な研究領域であると思います。文の人は理に、理の人は文に貪欲にアプローチするべきではないでしょうか。
 私がこの分野に関係するようになったのは、東大の後藤 先生から、東大博物館の会議で声を掛けていただいたのが、全ての始まりでした。そこから未知の領域に足を踏み入れたのですが、たいした知識の蓄積も行わず、事前の準備も不十分なままに、この分野の研究を始めてしまったことが、後々響いてしまったと反省しています。鏡笵が石製なのか土製なのか判定することを依頼され、走査型電子顕微鏡で植物片を多数見つけて、土製であると判断出来たのはビギナーズラックでした。その後、富山大学の三船先生から鏡笵に見られる黒色皮殻の研究に協力を依頼された時に、一旦立ち止まって予備知識の吸収・熟成に時間を掛けるべきでしたが、ここでも白雲翔さんが、研究用の鏡笵を快く提供してくださったので、またまた準備不足のまま、鏡笵に付着する黒色皮殻の研究を始めることになってしまいました。鏡笵の黒色皮殻の研究手法はマイクロプローブによる化学分析が主でしたが、分析は私の専門ではありません。通り一遍の技術を習得しただけです。従って、黒色皮殻の研究では、表面的で薄っぺらな研究しかできなかったことは基礎知識の不足に尽きます。鏡笵研究の中で、本来の結晶学の経験が役立ったのは、唯一SR(放射光)を使ったXAFSで黒色皮殻中のCuの価数を決めたことだけでした。「文理融合」とお題目を称えましたが、我が身を振り返ってみると、文も理も突っ込みが足りませんでした。貴重な標本を提供してくださった白雲翔さんや多くの鋳造実験をしてくださった三船先生には申し訳ないと反省しています。
 
私は、ライフワークの一つとして、広島・長崎で被爆した瓦の研究をしています。数千度の熱線が1-2秒間瓦を照射すると、どのような現象が起きるか、がテーマです。瓦は、凡そ1300℃で溶融しますが、被爆瓦を観察すると、表面が溶融ばかりでなく発泡しています。瓦は熱伝導率が低いので、加熱の影響は表面の局所に留まり、数千度の熱線に曝されても、短時間ですと表面の極薄い層が溶融・蒸発するだけで、内部は変化していません。瓦が熱損傷を受けた限界まで遠ざかると、そこでは融解も蒸発も考えなくて済みます。そこでは、瓦の熱吸収率を100%とすると、熱線のエネルギーは熱拡散のエネルギーに等しいことになります。そこから原爆のエネルギーにアプローチしているところです。熱拡散の方程式は、物質の拡散方程式と同じです。溶解した金属が、どのように鋳型の中に拡散して行くか。金属・離型材の成分、溶液の温度、鋳型の種類、粒度などなど、いろいろな要素があって複雑ですが、黒色皮殻の観点からも興味があります。鋳造技術とも密接に結びついているはずです。鋳造におけるサブミクロの領域での原子の振る舞いには、研究すべきテーマが沢山あるよう思えます。
 
アジア鋳造技術史学会が「文理融合」を象徴する代表的な学会となって発展することを、心から念じています。

美術作品に寄り添う日々を過ごして・・・・・・・・・・・・・・山中理

 即物的にしかも細部にって美術作品を鑑賞するようになってから、いつの間にか30年近くが経過しました。その営みの中で問題としたことはあまりにも些細な、大抵の人にとってはどうでも良い事柄だったのかもしれません。そのような私が皆様に美術作品の精髄をどこまでお伝え出来るのか、はなはだ心許ないのですが、この拙文に於いて、作品を見つめる行為が齎す豊穣な世界に少しでも分け入ることが出来ればと願っています。
 
まず手始めに、絵画作品の細部表現の中に真相へと近づく手掛りが隠れていると感じた経験をお伝えします。それは国宝「玉虫厨子」(飛鳥時代 法隆寺蔵)須弥座左右に描かれた「施身聞偈図」と「捨身飼虎図」を巡る物語です。大学で日本美術史を学んでから20年ほどが経過した頃、「施身聞偈図」の図版を複写したリバーサルフィルムをルーペで眺めておりました時、下段左に現れた、物語の上では最初に登場する雪山童子(異時同図法の形で3箇所に描かれています)のぼさぼさ髪が、中段左に描かれた童子では(うなじ)辺りで綺麗に纏められていることに気づきました。絵師たちは次のように想像したのかもしれません。若き童子は自分の命と引き替えに悪鬼羅刹から得た仏教の大切な偈(諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽)を後に続く人々に伝えたいという使命感から粛然とした気持ちに襲われます。ヒマラヤ山中での修行で身体も衣服も汚れていたので、全身を清め、洗った髪をキチンと纏め、衣服も洗いこざっぱりした身なりで、唯一人の厳粛な儀式に臨んだと。そして、究極の布施である身を施すと言う行為の内実を熟考したが故に、飢えた虎の親子を救うべく崖から身を投げた薩埵王子が目を見開いて落ち行く先をしっかり見つめていたのに対し、約束を果すために覚悟を決めて飛び降りたはずの雪山童子は思わず目を閉じてしまったと言う、際立った違いとして描き分けたのだと、私は推察しました。
 また、国宝「信貴山縁起絵巻」(平安時代 朝護孫子寺蔵)の主人公命蓮が3巻全てで都合8場面に登場し、その内一箇所だけ数珠を手にしていないのは何故か?それに対しては平安末期の仏教を取り巻く環境、修行僧の宗教意識から読み解けるのではないかと、答に近づく一筋の道を探し求めました。また、伝狩野永徳筆「四季花鳥図屛風」(桃山時代 白鶴美術館蔵)右隻に描かれた鳳凰の頭上に咲く桐の花が上を向いて描かれているのはどうしてなのか?現実の桐の花は下向きに咲き、それを反対方向に表す訳ですから何らかの理由があると考えられ、短絡的かもしれませんが、天下が治まっているのを寿ぐために飛来した鳳凰が宿る桐の花が下向きでは気勢が上がらないと考えたからではと愚考したのです。
 そのような美術作品との関わりの中で、2016年第68回「正倉院展」の時、己の観察力の未熟さを今さらながら痛感させられたことがありました。1998年第50回「正倉院展」で実見した際、「漆胡瓶」(唐時代 北倉)上に飛翔するヤツガシラ(戴勝)は3羽であると確信し、文章にそう書いていました。ところが、実際は5羽も飛んでいたのです。自分の迂闊さに愕然としましたが、一方では俄然色めき立ちました。戴勝のような珍鳥が1つの瓶に5羽もいるのですから、尋常ではありません。この鳥は西王母と深い繋がりがあり、更に西王母と中国史上唯一の女帝・武則天(624?~705年)とが密接な関係にあると睨んでおりましたから、「漆胡瓶」はやはり第八次遣唐使の執節使・粟田朝臣眞人が、703年元旦に長安の宮殿・麟徳殿に設けられた朝賀の席で武則天に拝謁した際、新生「日本国」に賜った可能性のある記念すべき傑作漆器だと改めて意を強くしました。同一種の鳥獣を一つの器面に多く表す例証は、唐時代銀器の最高峰・重要文化財「鍍金龍池鴛鴦双魚文銀洗」(白鶴美術館蔵)にも見出せます。僅か高5.2cm、口径14.5cmの銀碗に、狐顔ですが、尻尾が短く跳ね上った謎の小動物が4頭も登場するのです。その内の1頭は顔をこちらに向けて走っていて、実寸は全長1cm強で、なんと幅1mmもない耳が半ばで折れて垂れています。この小獣は野生ではなく銀器の持ち主と親密な仲にあるからこの表現がなされたのだと確信しております。そして、同じ口縁下の逆三角形状の区画(全部で14あります)内に、嘴の先から脚の先までたった1cmで表された頸部を曲げて飛翔する2羽の鷺が刻出されているのです。鶴と異なり鷺は頸を曲げて飛びます。唐時代工人の観察力に気づいた時、小躍りしたくなるくらい嬉しくなりました。これも縁あって白鶴美術館の一員となれたが故の僥倖です。そこで得た美術上の知見をお知らせすることで恩返しらしきものをしたいと思い、普段の展示解説に反映させるように心掛けております。また、重要文化財「鍍金狩猟文六花形銀杯」(唐時代 高5.4cm 口径8.7cm 白鶴美術館蔵)には、矢を射られて倒れ伏す鹿が悲鳴を上げる様子が力強い蹴彫りで表されていますが、全長1.5cmくらいの鹿の開いた口から覗く舌は1mmにも満たない大きさで、まさに死の苦しみを象徴しています。そのような迫真的表現がなされているかと思えば、実にユーモラスな鳥獣もいるのです。騎馬の狩人に追いかけられて逃げる2頭の狐は、反対方向に飛ぶ鴨を見上げながら疾走しています。まるでアニメ「ニルスのふしぎな旅」に登場する狐のレックスを髣髴とさせます。更にパルティアンショット・スタイルの騎馬の狩人の下方では、リラックスしたお気楽な様子の鴛鴦2羽が安全地帯に立っています。ウォルト・ディズニー(1901~60年)のドナルド・ダックに先行すること千二百数十年前に、このようなキャラクターを生み出したことは驚異です。
 正倉院宝物「鹿草木夾纈屏風」(北倉)に表された鹿が斜対歩だと気づいたことが、国宝「竜首水瓶」(東京国立博物館法隆寺宝物館蔵)に刻まれた4頭の天翔る天馬の1頭が斜対歩であることの発見に繫がり、制作国究明の契機にならないかと期待しています。身近な動物(牛や馬、羊、鹿など)の自然歩行の基本形が斜対歩であることを知った時、それを表現してみたいと思った工人がいてもおかしくありません。でも、歩行の一瞬を切り取ると側対歩に見える時がありますからその表現も必ずしも間違いとは言えないでしょう。

 上記で繰り広げた考察方法を、鋳造技術の頂点を極めた殷(商)周青銅器にも敷衍したいと願い、白鶴美術館の青銅器を穴のあくほど見つめていました。それらに表された饕餮文のいわゆる黒目(瞳のこと)の位置が、多くの場合、目尻側に寄っていることはとても興味深く、各氏族の宗廟に据え置かれた祭器としての青銅器の器表を覆う饕餮文は黒目を目尻寄りにして四方八方に睨みを利かせ、魑魅魍魎の襲撃から神々や祖先の霊への捧げものである聖なる酒や食べ物を守っていると推測しましたが、四川省三星堆遺跡出土の鋳造遺物の一部(縦目仮面や立人像台座の怪獣や鳥や蛇など)の黒目が正反対の目頭寄りであることも注目に値します。甲骨文字を出発点とする本格的な漢字創出の時代から歴代に亙り、中国の人々が、目が有する呪的力を如何に重視し、その表現を重要課題だと捉え続けて来たかは、前漢時代初期に築かれた長沙馬王堆1号漢墓出土の棺や帛画に表された龍の目を見れば一目瞭然です。すなわち、活動している龍は両目で前方を見据えたり、黒目を目頭に寄せて飛び行く先を注視していますが、休んでいる龍は片目しか表現されず或いは上目遣いになるなど、黒目の位置が前方向を意識していないことを明言している感じなのです。但し、殷王朝が大いなる脅威を抱いていた南方に勢力を占めた苗族(南人)への呪鎮の為に製造し埋納された可能性のある青銅器に施された虎や人面の目の黒目が真ん中である例証は若干あるのですが、現時点では単なる思い込みの域を脱しておりません。
 今後の課題の一つは、中国古代人が自ら選択したかもしれない黒目表現の仕分けが、それなりの妥当性を持つかどうかの検証を重ねることだと思っています。意固地なほど旧態依然とした鑑賞態度しかとれない愚かなこの身ですが、ささやかな日常感覚を総動員して、心温まる世界を美術作品の中に探し求める日々をのんびりと過ごして参ります。

青銅製品から鋳型材へのアプローチは可能だろうか…藤丸詔八郎  

1.福岡県春日市で武器形青銅器の土製鋳型が出土
 20173月に春日市教育委員会から刊行された『須玖タカウタ遺跡3-5次調査-』には1号竪穴建物跡から出土した石製鋳型(銅剣、銅矛、多鈕鏡等)と土製鋳型(銅矛、銅戈等)が詳報されている。鋳型の時期はいずれも弥生中期前半とのこと。なかでも銅戈の土製鋳型は援(えん:鋒を含む身の部分)の中ほどから内(ない:柄に装着する部分)までが残存する細形タイプの合わせ鋳型である(現存長約15cm)。この上下二枚の鋳型の合わせ面にはそれぞれ凹凸のハマリが造作され、また、鋳型の外側の面には細い溝状の凹みが残っている。この溝状の凹みは上下二枚の鋳型を合わせて固定するのに用いたカスガイを嵌め込む凹みではないかと推定されている。鋳型断面のX線CT写真には肌土、真土(鋳物土)、塗り込め土の3層が映し出されていて、込め型であることが分かる。当時の鋳造技術を解明する上で有用な情報をもつ土製鋳型と評価されている。
 さて、北部九州では石製鋳型が圧倒的に多く、これまで武器形青銅器は石製鋳型での鋳造と考えられてきた。しかし、須玖タカウタ遺跡の例はすでに細形銅戈の段階から土製鋳型でも鋳造していたことを裏付けている。とすれば、武器形青銅器の中には石製鋳型による製品と土製鋳型による製品が混在していることが予想される。今後、武器形青銅器に遺存するさまざまな鋳造痕跡等をもとに、石製鋳型製か、あるいは土製鋳型製か、その弁別が可能かどうかという課題に関心が集まるのではなかろうか。もし、製品から鋳型材の弁別が可能になれば、北部九州における青銅器生産の研究に新たな展開が生まれることになろう。

2.鄭智恩さん(韓国漢城百済博物館)が提起した問題(第8回アジア鋳造技術史学会で発表:20149月、京都市)
 韓半島では青銅製武器と多
鈕粗文鏡の石製鋳型は知られているが、まだ土製鋳型は見つかっていない。これまで鈕細文鏡や八珠鈴等は土製鋳型での製作と考えられてきた。鄭智恩さんは、その発表「多鈕細文鏡の単位文様と製作」(アジア鋳造技術史学会2014『アジア鋳造技術史学会研究発表概要集8号』)のなかで、「多鈕細文鏡の単位文様は区画内に集線を充填したものと予想していたが、観察してみると、施文の線が区画内の外へはみ出す例がきわめて多い。」と指摘したうえで、次のような問題を提起された。
a.施文線が区画内からはみ出しているのに、なぜ修正していないのか?
b.線刻を修正することが不可能な鋳型材ではないのか?
c.まだ
多鈕細文鏡の鋳型が出土していないため、鋳型が土製なのか、石製なのか、または蜜蝋なのか、明確な結論は出せないが、土製鋳型と石製鋳型が共存していた可能性を念頭に置く必要があるのではないか?

3.滑石製鋳型で鈕細文鏡を再現した韓国の鋳金家・李完圭さん
 鄭智恩さんは、発表の終わりに、滑石製鋳型で多鈕細文鏡を再現した李完圭(鋳金家)さんの製作作業の一部を紹介された。再現された精緻な文様をもつ多鈕細文鏡の映像を見て、驚いたことを記憶している。その研究会場で嶺南大学校の李清圭さんへ李完圭さんが鋳造した多鈕細文鏡の状態についてお尋ねしたところ、精巧な鋳上がりであり、また、その滑石製鋳型を嶺南大学校で保管しているとのことであった。
 20165月、私は滑石製鋳型とその製品を実見するため嶺南大学校を訪問した。李清圭さんは英国への研修で不在だったが、鄭仁盛さんが対応してくれた。嶺南大学校に保管されていた滑石製鋳型と多鈕細文鏡は共に3回目の注湯後のもので、かなり傷んでいた。滑石製鋳型は文様面のあちこちがかなり剥離して荒れ、また、多鈕細文鏡は文様が不鮮明になっていた。初鋳の滑石製鋳型と多鈕細文鏡は李完圭さんの工房に保管されているとのことだった。幸い、李完圭さんの作業状況を記録した写真が嶺南大学校に保管されていた。それらを鄭仁盛さんから見せてもらった。そこには滑石製鋳型から多鈕細文鏡が再現製作されていく過程が映し出されていた。また、鄭仁盛さんから李完圭さんが2014年に執筆出版した『韓国の文化遺産-青銅器の秘密を解き明かす』(ハングル版)をいただいた。
 その著書によれば、李完圭さんは1970年代に金属工芸彫刻の大家である
오해익先生の工房に入り、青銅器鋳造への道を踏み出した。2007年には多鈕細文鏡(崇実大学校博物館蔵:国宝141号)を滑石製鋳型で再現して、第32回大韓民国伝承工芸展に出展して国務大臣賞を授与し、2008年に京畿道無形文化財(鋳成匠)第47号に指定された人である。

4.土製鋳型で鈕細文鏡を再現した富山県高岡市の中口裕さん
 富山県高岡市は鋳物の街として著名である。医師として高岡逓信診療所長を務めながら、古代の鋳造技術に魅了された中口裕さんは土製鋳型を使用して多鈕細文鏡の再現製作に成功された中口裕1975『実験考古学』雄山閣)。その時の土製鋳型が北九州市いのちのたび博物館に保管されている。40年ほど前に北九州市立歴史博物館が鋳造資料として中口さんから購入したものである。その土製鋳型を観察すると、注湯により文様面のあちこちがかなり剥離しているものの、そこにはほどほどに精緻な多鈕細文鏡の線刻が残っている。

5.多鈕細文鏡にも滑石製鋳型による製品と土製鋳型による製品が混在しているのだろうか?
 現代の鋳技術とはいえ、完圭さんと中口裕さんの事例は滑石製鋳型でも土製鋳型でも多鈕細文鏡が鋳造可能であることを示している。とすれば、20149月の京都大会で鄭智恩さんが提起した問題(a~c)が現実味を帯びてきそうである。韓半島を中心に分布する多鈕細文鏡においても滑石製鋳型による製品と土製鋳型による製品が混在しているのだろうか?

6.銅鐸の鋳造における石製鋳型と土製鋳型
 近畿地方を中心に出土している銅鐸の数は550個以上ともいわれているが、これまでに知られている鋳型の数はそれほど多くはない。ここでも北部九州と同様に石製鋳型が多く、土製鋳型(奈良県唐古鍵遺跡の土製外枠など)はわずかである。難波洋三さんは、大阪府羽曳野市西浦出土の突線鈕式銅鐸に真土製の外型が付着していたことや各型式の銅鐸の内・外面に遺存している鋳造痕跡等をもとに、「扁平鈕式でも四区袈裟襷紋銅鐸と流水紋銅鐸には石製鋳型製と土製鋳型製の両者があるのに対し、六区袈裟襷紋銅鐸はすべて土製鋳型製となる」と指摘し、扁平鈕式のなかで石製鋳型から土製鋳型へと鋳造技術が転換したと推定している(難波洋三1986「銅鐸」『弥生文化の研究』第6巻 道具と技術Ⅱ)

7.島根県加茂岩倉遺跡出土の銅鐸群等におけるⅩ線透過とX線CTの効果
 199610月、農道工事の最中に39個の銅鐸が発見され、2002年に『加茂岩倉遺跡』(島根県教育委員会・加茂町教育委員会)が刊行された。報告書には全銅鐸のⅩ線透過写真と一部銅鐸のⅩ線CT写真が掲載されている。この銅鐸群の調査に終始携わってきた難波洋三さんは「加茂岩倉遺跡出土銅鐸のⅩ線透過写真とⅩ線CT写真を検討すると、外縁付鈕1式から扁平鈕式古段階の銅鐸は青銅中に数mm程度の大きさの気泡が非常に多いのに対し、扁平鈕式新段階の銅鐸は、銅鐸群に関わらず、青銅中に気泡がほとんどない。他の遺跡で出土した銅鐸のⅩ線透過写真でも、同じことが確認できる。」と指摘し、さらに、「大阪湾型銅戈a類と平形銅剣も気泡を多く含んでいる。これに対し、土製鋳型での製品が確実なb類のうち、気泡の多寡をⅩ線透過写真によって確認できた桜ヶ丘遺跡(神戸市)出土の7本は気泡をほとんど含んでいない」ことも挙げて、青銅中の気泡の多寡によって、石製鋳型による製品か、土製鋳型による製品かを弁別できる可能性が高いことを述べている。また、青銅中に気泡の多寡が生じる原因については石製鋳型と土製鋳型の物理的特性の差異(土製は石製よりも通気性に優れ、また、石製よりも冷えにくい)によるものであろうとしている。(難波洋三2009「銅鐸の鋳造」『銅鐸-弥生時代の青銅器生産』奈良県立橿原考古学研究所付属博物館特別展図録第72冊)。

8.青銅製品から鋳型材へのアプローチにはⅩ線透過とX線CTの効果が期待されるのでは
須玖タカウタ遺跡から出土した細形銅戈の土製鋳型によって、武器形青銅器には石製鋳型製と土製鋳型製が混在している可能性が高くなった。また、多鈕細文鏡においても、現代の鋳造技術とはいえ、滑石製鋳型でも土製鋳型でも鋳造可能となれば、石製鋳型製と土製鋳型製の混在が予想されそうである。青銅製品から鋳型材を弁別するには、島根県加茂岩倉遺跡の銅鐸群等での解析事例にみられたように、Ⅹ線透過とX線CTが効果を発揮することになるのではなかろうか?

「遊牧民の青銅器鋳造技術と地域性」・・・髙濱 秀

ユーラシア草原地帯の青銅器を研究していると、同じ器物でも地域によって造り方が違うことに気付くことがある。それを痛感したのが、鍑(ふく)と呼ばれる遊牧民独特の容器である。

これはスキタイなど初期遊牧民と呼ばれる人々の使用したもので、西はハンガリー、黒海沿岸、シベリア、中央アジア、そして東は中国の北辺に至るまで極めて広い地域に広まっている。煮炊きに使用したと考えられるが、地域によってはそれが祭祀に使われた可能性があり、水辺などから埋納されたような形で発見されることもある。年代としては、紀元前9世紀頃から紀元後5世紀頃ということになろうか。

地域、時期により形の差は色々あるが、基本的な形は次のようなものである。器体は深鉢型か球形に近く、台が付くものが多い。環状あるいはアーチ状の把手が2つ口縁の上に付く。中国の北辺のものを見ると、大部分のものは器体に縦方向の合笵線がある。一方シベリアなど中国以外の地域のものには、そのような縦方向の線は見られない。

富山大学の三船温尚さん、横浜ユーラシア文化館の畠山禎さん、現在愛媛大学東アジア古代鉄文化研究センターの研究員である荒友里子さん、そして私も加わってシベリアの鍑の鋳造実験を行ったことがある。しかし結局、どのような鋳型を使ったのか、はっきりした結論は出なかった。

中国北辺のものの縦方向の合笵線は、中国の青銅容器と共通している。おそらく中国の鋳造技術を模倣したのではないかと、私は考えている。中国北辺出土の鍑のなかにも、縦方向の合笵線が見られないものも少数あり、それらには他の共通する特徴もあって、一群のものと考えられる。さらにそれらに似たものが、僅かではあるが草原地帯のあちこちに見られることから、私としては、それらが草原地帯の最も早い鍑であり、それが中国北辺にも伝来して、次の段階に中国的な技術で作られるようになったと推定している。

しかし一方、鍑は中国の青銅容器から派生した器種だと考える人もある。そうすると中国の技術で作られた一風変わった青銅器が、草原地帯に伝播して、そちらの独特の技術で造られるようになったということになる。今のところ、この説も完全には否定できないかもしれない。いずれにせよ、ほぼ同じ器物が地域により異なった技術で製作されたことには違いがない。

このところ私が興味を持っている馬具の銜も、地域と技術の関連が問題になるものである。銜(はみ)は馬の口に食ませて手綱につなげ、馬を御するものである。鎖状につながった2部分からなることが多く、口から外れないように、両端に鑣(ひょう)、銜留、あるいは轡鏡板(くつわかがみいた)と呼ばれるものが付けられ、頭絡の重要な部分となる。

中国の商代後期にはすでに2部分からなる銜が見られ、西周時代にはさらにそれが発展したものが現れる。この造り方の伝統は春秋中期頃までは続くが、その後に見られる銜は、形は似ているが、笵の線からみると、どうやら別の方法で造られたと思われる。以前にアジア鋳造技術史学会で発表したことがあるので、詳しいことは繰り返さないが、後の時期に見られるこの別の鋳造法は、草原地帯では前9世紀頃、つまり中国の西周時代中後期ぐらいの時期から、行われていたらしい。もし中国における変化が草原地帯からの影響だとすると、鍑とは異なり、この場合は技術の移転ということになる。

広い地域に、よく似た技術の特徴が見られる場合もある。小型の装飾金具で、背面に衣服などに付けるためのつまみが付くものがある。なかには、装飾金具の凹状の背面に、いかにも棒状のものをくっつけて、つまみを造ったと見えるものがあり、私は燃焼消失原型を利用したのではないかと疑っている。中国北辺の例でいえば、夏家店上層文化(中国の西周後期から春秋前期頃に相当)の双尾形金具、戦国時代ごろに内蒙古中南部や寧夏・甘粛などでよく見られる狐の顔のような形をした金具が挙げられよう。

私は南シベリア、アバカンのハカシア郷土博物館で、カラスク文化後期頃の墓の出土品を見せてもらったことがある。なかに直径3㎝ほどの円形の金具があった。その裏には細長い角柱状の棒が付けられており、そのいかにもとって付けた感じは、上に述べた飾金具のつまみとよく似ている。これは、共に出土した刀子から、おそらく中国でいえば西周時代中後期に相当すると思われ、夏家店上層文化とあまり変らない年代である。この時期以降、広い地域によく似た技術が広まったといえるだろうか。

さらに言えば、中国の戦国時代から前漢時代に相当する時期の帯の飾板も例に挙げることができよう。この時期には、中国の北辺を含む広い地域の遊牧民の間に、よく似た帯を締める風習が広まった。典型的なものは、小型飾板を並べて付け、帯の正面に大きめの飾板を2枚ほど付ける。その正面の飾板には動物の紋様、闘争紋などを表すことが多い。この飾板の裏側に布の跡が見えることがある。それも圧痕ではなく、布のポジの形で表れるのである。米国のエンマ・バンカー氏等は、蠟のようなもので飾板の原型を作り、その裏に布を貼り付けた形で粘土にくるんで、失蠟法に類する鋳造を行ったと解釈した。Lost-wax and lost-textile processと名付けられたものである。この説の当否についてはまだ議論があるかもしれないが、いずれにせよ、同様の布の跡は、中国北辺のこの種の飾板だけでなく、いわゆるピョートル大帝シベリア・コレクションの帯の飾板のなかにも見ることができる。これらは西シベリアの、オビ川、イルティシュ川のあたりで収集されたと推定されている。

このように青銅器の型式だけでなく、鋳造法をも検討することで、今まで見えてこなかった文化の交流が見えてくることを期待している。

 

古代青銅器の内部で散見される純銅塊出現の怪」・・・横田 勝

私は学生時代から大学定年退職に至るまで一貫して金属やセラミックスに関する材料                  工学の研究を中心に進めてきましたが、今から20年ほど前に知人を通じて奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)所蔵の古代青銅鏡の材料学的調査をしてほしいとの依頼を受けました。私は金属文化財の調査など思いもよらない研究対象であったため、この想定外の研究分野に強い興味を持ち、その依頼を二つ返事どころか一つ返事でお引き受けした次第です。これが端緒となり、橿考研の考古学の専門家、富山大学芸術文化学部の鋳造技術専門家と金属材料学を専門とする私を含めた数名のメンバーで古代青銅鏡の調査団を結成し、10年間近くの期間に日本はもとより中国、韓国各地の考古学研究所、博物館や大学等が所蔵する2,000面余りの古代青銅鏡について現地調査を行ってきました。

私が古代青銅鏡の材料学的調査に加わっていた頃、当時滋賀県立大学教授、現在奈良県立橿原考古学研究所所長の菅谷文則先生から「古代青銅器の内部に純銅の小塊が散見される」とお聞きしたことが有ります。当時私はそんなことは絶対にあり得ないと否定し、聞き流しておりました。何故ならば、青銅合金の構成金属である銅と錫が溶解により殆ど均一に合金化している状態から純粋な原料の純銅(と錫)に変化することは自然現象(熱力学、エントロピー増大則)では起こり得ないからです。その様な観点から青銅合金中に純銅塊が出現するなんて起こり得ないと判断していました。

その後は古代青銅鏡の腐食や変質をしていない地金部分の合金組成、顕微鏡組織観察、密度などの一般的な材料学的調査を進めていましたが、何気なく古代青銅鏡の腐食・変質層は果たしてどうなっているだろうかと顕微鏡観察をしたところ、何と純銅の小塊が散在するのを自分の眼ではっきりと確認したのです。その時の驚きは例えようが有りませんでした(横田ら:日本金属学会誌、66 (2002) 707-714.)。科学的な常識では考えられない青銅合金中の銅成分が純銅塊として出現する、その原因は何か、余りにも常識を絶すると思われる現象であるため、その当時私はこの事実から眼を反らそう、見て見ぬふりをしてやり過ごそうとしていました。

当時、この現象を学生達に対して古代青銅器にはエントロピー減少の世界があるのだと冗談を言っていたのですが、学生達に対してエントロピー増大の法則を理解させる例として、純水が入ったコップの中にインクを何滴か滴下させて静置するといつの間にかインクの色に応じた濃淡の無い均一色の水溶液に代わっている、もちろんインクを滴下させた水を攪拌すれば短時間で均一色の水溶液が出来上がることを示しました。しかしこの水溶液を元の純粋な水とインクに分離することは人工的な操作では可能ですが、自然現象としては起こり得ません。

その様に自然では起こり得ないと考えられた現象が古代青銅器の内部で進行していたのです。すなわち、青銅合金の原料である銅と錫を溶解させ、鋳造してこれらの原料が殆ど均一な銅と錫の合金になっているはずですが、その原料の一部である銅が純銅の状態で出現しているのです。くわばら、くわばら、このような大変不可解な現象の説明が付きそうにないため、これを無視してしまおうという気持ちが強かったことは事実です。しかし、どうしても気になる。ところが、そんな時ふっと思い出したのが、当時金属製の下水道管等が異常腐食されるということで話題になっていましたが、その原因は“硫酸塩還元菌”などの微生物による腐食だということが明らかになりました。

古代青銅器内における純銅塊の出現がどうして起きるのか、やはり気になっていた時に金属の微生物腐食の情報を知り、このときハッと気が付いたのです。古代青銅器も微生物による腐食と変質が進行するのは言うまでもないでしょうが、他に微生物による純銅塊の出現も起こっているのではないかと。善は急げ、幸い科学研究費も獲得していましたのでバイオ専門の会社の協力を得て早速古代青銅鏡内から採取した小片試料の分析を始めました。その結果から、とりあえず微生物による腐食・変質を示唆する分析結果が得られました。先ず第1は錫の有機化合物が検出されたこと、第2は微生物腐食に関与する代表的微生物として我々の身近な生活環境で当たり前に生息する硫酸塩還元菌が関与していると推察されるPbSO4Cu2Sが検出されたことです(M. Yokota et al.: Mater. Trans., 44 (2003) 268-274)。ここで、鉛の成分が検出されたのは、古代の青銅器には一般に鉛が数%前後加えられていたことによります。

このような結果から土中における青銅器の腐食・変質は、無機化学的反応は当然ながら硫酸塩還元菌等の微生物が関係していることが推察された訳です。また古代青銅器中から採取した試料のバイオ分析・解析を行った結果、後述しますような極め付けともいえる金属還元細菌“Shewanella algaeが検出されたことです(M. Yokota et al.: Mater. Trans., 50 (2009) 599-604)。

古代青銅器の腐食・変質に関してはそれ以上深く分析・検討はしませんでした。しかし、やはり気になるのは古代青銅器中における純銅小塊の出現です。古代青銅器の合金成分のうち銅がどうして純銅の形で出現するのか。私はこれも微生物による仕業ではないかと予想しました。

その当時私はすでに富山大学を定年退職していましたので、どこか微生物工学の研究をしている大学の研究室はないだろうかと探した結果、大阪府立大学でまさに私が望む研究をしている研究室を見つけ、そして客員研究員として受け入れて頂いたのです。その研究室では、我々の生活環境に馴染みの深い泥沼などに生息するShewanella algae等の金属還元細菌を利用して都市鉱山と呼ばれる都市からの廃棄物から貴金属やレアメタルを回収する研究を積極的に進めており、一部にはすでに実操業にまで至っています。私は古代青銅器中で観察される純銅塊(+亜酸化銅塊)の生成がこの金属還元細菌Shewanella algaeに依拠しているのではないかと推察しました。そしてこの菌を利用して亜酸化銅から純銅に還元できないかとの予測を立て、バイオ実験を始めることにしました。この実験を始めて5年近く過ぎたでしょうか、実験が上手く行かず諦めかけていたとき、期待される実験上の変化が急に現れ、ついに金属還元細菌Shewanella algaeによる亜酸化銅から純銅への直接還元に成功しました(横田ら: 粉体および粉末冶金、60 (2013) 334-340)。微生物による亜酸化銅から金属銅への直接還元の成功は世界で初めてだと周囲の人たちから祝福されましたが、貴金属やレアメタルならばいざ知らず、銅の製錬に関しては何も呑気に微生物を使って還元・製錬するまでもなく、工業的に安価に銅製錬が行われている現状を考えますと得意になることもありませんでした。しかしやはり古代青銅器内での純銅塊の出現は古代青銅器内から検出された金属還元細菌Shewanella algaeの所為によるものと判断せざるを得ない重要な実験結果を得ることが出来ました。古代青銅器中の腐食・変質層内で出現する純銅塊の出現に関しては微生物の関与以外に考えられないと判断しています。

最近耳にした話ですが、古代青銅器内での純銅塊の出現は原料として使用した自然銅が未溶解のまま、すなわち青銅合金の溶湯が半溶融のままで鋳造されたために原料(自然銅)の一部が残ってしまったのだと、考古学や文化財科学を専門とする方々の間で言われているようですが、これはとんでもないお門違いの考えだと思います。鋳造を経験した人達は納得頂けると思いますが、半溶融状態の溶湯は流動性(湯流れ性)が悪く、その鋳造品は正常な形に仕上げることが出来ないことは言うまでもなく、内部構造欠陥の多い結果になることはご存じのはずです。

さらに今回明らかになったもう一点の重要な事実として、原料としての自然銅の半溶融説を完璧に否定できる根拠を私は見出しました。それは以下のとおりです。多くの古代青銅器の切断面を観察しますと、純銅小塊(+亜酸化銅小塊)は腐食・変質層の内部だけに出現し、腐食・変質を受けていない銅-錫合金の地金部分では純銅塊(+亜酸化銅)がまったく見出されないという結果から、古代青銅器内の純銅塊は青銅器内の合金成分がまず無機化学的または微生物により酸化・腐食され(亜酸化銅などの生成)、その後Shewanella algae等の金属還元細菌により亜酸化銅から純銅に直接還元されたものと確信しています。

(追記:少々本題から反れるかと思いますが、私は仁徳天皇陵近くの堺市百舌鳥地区に住んでいます。最近“百舌鳥・古市古墳群”が世界文化遺産の候補に決まりました。しかし容易く世界文化遺産に指定されるかどうか疑問に思っています。その根拠は、多くの古墳や遺跡は文化庁や宮内庁によって管理され、これら多くの地区は立入禁止となり、ましてや発掘調査などまかりならぬ、という状況では各古墳や遺跡の実態が明らかにされない、すなわち一般市民に関心や馴染みが薄い、という点が指摘されるのではないかと危惧しています。取り越し苦労になりませんようにと願っています。皆様方のご声援をよろしくお願いいたします。)

 

「出雲で青銅器は本当に鋳造されたのか?」・・・高倉 洋彰

8月28・29日、島根県出雲市の島根県立古代出雲歴史博物館で、2010年度第4回アジア鋳造技術史学会が開催された。かつては青銅器文化、ましてや鋳造技術に関しては無縁とみられていた出雲が、荒神谷遺跡の銅剣358本・銅矛16本・銅鐸6個を埋納した2つ遺構、それに引き続く加茂岩倉遺跡の銅鐸39個の埋納遺構の調査以降、青銅器文化の一つのセンターとみなされるようになった。同時に出土した青銅器のうち北部九州の製作が明らかな銅矛を除いた、銅剣と銅鐸の製作地について関心がもたれるようになった。今回の学会でも29日の午前に、荒神谷の青銅器に関する発表が集中して行なわれることが、予告された。荒神谷遺跡の発掘調査後間もない1986年3月に開催されたシンポジウム「出雲・荒神谷は何を語るか-銅剣・銅鐸・銅矛、一括埋蔵の謎-」(後に『荒神谷の謎に挑む』と題して角川書店から出版)のパネラーの一人として、荒神谷銅剣は銅剣変遷の系譜に中細銅剣c類として位置づけられることから出雲で独自に創案されたものではないものの、出土数の多さから北部九州の鋳造技術者の関与のもとで出雲において鋳造された可能性が大きいと発言をしている私は無関心ではおられず、参加した。

皆さんの発表を拝聴していると、精緻な研究が展開しているにもかかわらず、結局いまだ製作地を特定できないのが現状であった。これらの議論、ことに吉田広さんが代表して発表された荒神谷銅剣の同笵関係を拝聴しながら、少なくとも出雲は製作地ではないという確信めいたものが頭に浮かんだ。

吉田さんによると、荒神谷銅剣は鋳型の同笵率が高く、1.310(同笵組比率19%)であると報告された。銅剣1本の鋳造には合わせ鋳型2個必要だから、この数値を単純に考えると、荒神谷銅剣の鋳造には273組546個の鋳型が必要になる。荒神谷銅剣の場合は、多少の相違はあっても358本のすべてが中細銅剣c類に分類される斉一性をもっているから、同一の工房あるいは鋳型の形態を共通させる同じ地域の工房で鋳造されたことは疑いない。銅鐸の場合は、武器形青銅器よりも同笵率が高く、菱環状鈕式20%、外縁付鈕式60~71%、扁平鈕式20~67%であるという難波洋三さんの研究が紹介された。ただ、加茂岩倉の場合は同笵が15組26個あることがわかっており、同笵のない13個を加えると、銅鐸もまた鋳型は2つを合わせるから28組56個が必要になる。

出雲出土の青銅器は荒神谷と加茂岩倉の発見で飛躍的に増大し、出土数では日本列島でも冠たる地域となった。しかし出土数の多さは必ずしも製作地を意味しない。大量の中広・広形銅矛の埋納が認められる長崎県対馬島の場合、出土青銅器数も多いが出土遺跡数が多い。これは矛形祭器を使用する祭祀が対馬に定着していたことを物語っている。しかし矛形祭器の製作地は対馬ではなく、福岡平野である。出土数の多さが製作地を意味しない明確な事例である。その福岡平野の春日市須玖岡本遺跡群一帯には、佐賀県吉野ヶ里遺跡の環濠集落を面積的に凌駕する、広域の工房地帯が存在する。こういう需要と供給のバランスがなければ、358本におよぶ荒神谷銅剣を鋳造するための鋳型546個、39個の加茂岩倉銅鐸を鋳造するための鋳型56個を準備できる工房や工人の確保は難しい。

荒神谷の銅剣の埋納状況をみると、東側(谷奥側)から93本・120本・111本・34本と4列に納められているが、銅剣の並び方からこれをさらに7区に大きく分けることが可能で、それは7パックに梱包されていた様子を髣髴とさせる。4列のうちの34本と数の少ない最西のA列にもう1パック分の空白地があり、この部分にも銅剣があったもののすでに配布されたと考えられている。しかし配布先である埋納遺跡は、すべてが発掘されたわけではないにしても数少なく、青銅器の集中地域というには程遠い現状にある。そこで埋納遺構の少なさを、出雲地方では武器形祭器や銅鐸形祭器を使った祭祀行為が普及していなかったことの反映であると考える余地が生じる。この現状を直視すると、中細銅剣c類や銅鐸を大量に生産しても需要は数少ないのだから、たちまちにして工房は倒産することになる。

倒産が予測できるような工房は置かれない。したがって、荒神谷銅剣が出雲で鋳造された可能性よりも、北部九州の武器形祭器を用いる青銅器祭祀や、近畿地方の銅鐸祭祀を知った出雲の先進的な有力者が、出雲地方への習俗の普及と定着を予測し、先物買いとして大量に購入したものの、案に相違してほとんど普及・定着しなかったために余ってしまった結果を意味するのではなかろうか。すなわち荒神谷に埋納されていた358本の銅剣は北部九州で鋳造されたものであり、大量に導入したものの、目論見が狂って剣形祭器を使う祭祀行為が定着しなかったために、供給先(受け取り手)のない余り物であることを物語っている。荒神谷遺跡以外に認められない北部九州製の矛形祭器もこのことを示している。この論は荒神谷遺跡の性格にもおよび、祭祀の場あるいは祭器埋納施設ではなく、商品の倉庫・収蔵施設であると考えざるを得ない。

荒神谷銅剣の製作地論議ではこれまで出土数の多さに惑わされてきている。私自身がそうで、先のシンポジウムでは出土数の多さに惑わされ出雲鋳造の可能性を述べながら、7パックであれば船で運べば困難ではないとして、北部九州製作説を小さな声で主張している。改めて冷静に考えると、重要なことは出土数だけではなく、剣形祭器・矛形祭器、そして銅鐸形祭器がいかに理解され普及・定着しているかの解明である。それには埋納遺跡の分布が大きな手がかりとなる。そして現状では遺跡数の少なさから出雲における青銅器祭祀の普及と定着は認められず、したがってこの地での本格的な青銅器鋳造の可能性は少ないといわざるを得ない。この程度のことは1986年段階でも考察可能だったにもかかわらず、出土本数に目が眩んでいたナァというのが論議を拝聴しながらの感想である。

「お釈迦さまと孫悟空」・・・戸津圭之介

この夏は例年にない猛暑が続き、夕刻になると連日激しい雷雨に見舞われている。先日などは至近に落雷し一瞬のうちに停電。雷鳴も去り、ローソクの光りの中で久々に静かで長い夜を過ごしていると、いつしか遠い昔に思いをはせていた。

東大寺大仏の創建 天平15年(743年)聖武天皇によって大仏造営の詔が発せられた。2年後、現在の地で基礎工事と原型の制作が開始され、完成までに14年の歳月を要した。仏身約16メートル、総重量250トンともいわれている。この国家的大プロジェクトである世界最大の金銅仏の鋳造と大仏殿の造営を、1300年も以前の、電力も、ガソリンも、重機もない時代に、どのようにして成し遂げたのだろうか。完成当初の金色燦然と輝く盧遮那仏は、四天王・脇侍と共に今よりもさらに大きな繧繝彩色に彩られた大仏殿の中央に祀られ、「光り輝き世界全体をあまねく照らしわたる」華厳の世界を願った。

出逢い 昭和39年(1964)以来、我々の東大寺大仏の歴史と鋳造技法についての研究グループは、8月7日のお身拭いの一日だけ大掃除への参加を許され、大仏の外側や胎内に入っての調査の機会に恵まれ共同研究を進めてきた。当日は早朝のまだ閑散とした奈良公園を通り、二月堂前の大湯屋で掃除の皆さんと共に身を清め、麻の作務衣に着替え身支度を整えて大仏殿に向かう。関西特有のクマゼミがワシワシと鳴きしきる、強い日差しが照りつけ緊張と期待の中ですでにじっとりと汗がにじんでくる。こうして毎年続けられた大仏様との邂逅は20年以上続いた。

大仏は周知の通り創建以来二度に亘る戦火によって罹災し、何度となく修理が繰り返されてきた。まさに満身創痍で各時代の鋳造の作業が複雑に折り重なっている。これまであまり知られていなかった状況を毎年調査し、目に見え、手の届く範囲の隅々まで詳細な見取り図を描き考察を繰り返した。その結果創建当初の鋳造方法や、その後の修理方法、江戸期に造られた頭部の工法などが徐々に解明されてきた。1997年には『東大寺大仏の研究―歴史と鋳造技法―』(共著)として岩波書店より刊行された。

現在の大仏 我々が現在拝観できる大仏は、天平創建期の部分に罹災後の各時代の補鋳が複雑に重なっている。調査の結果、創建期鋳造の部位が想像していたより広い範囲に残っていることが判った。仏体では両膝、腹部、右腋の下より右胸部にかけて、右腕・左腕の下方、腹前部のほぼ全面、蓮華座の蓮弁部では約半分、上面で約四分の三に及んでいる。

大仏背面の出入り口に梯子をかけて胎内に入ると、腹部から両腕の下半分以下は中型の残土が詰まっている。その上に組まれた石の碁台上には、一辺40センチもある木材の角柱が、あたかも古民家の天井裏のように縦横に組上げられ、現在の大仏を支える構造体となっている。胎内はもちろん真っ暗である。狭い間隔の中でヘッドランプや懐中電灯が頼りの観察と見取り図の作成になる。ライトの鈍い光の中に天平創建期の鋳造の中型側がダイナミックな岩壁のようにそびえ目前に迫る。ちなみに、ここで観察できる創建期の破断面の肉厚は薄い所で5センチ、厚い部分で10センチにも及ぶ。そこを取り囲むように、薄手で複雑に補鋳されている後補部の様子が、あたかも今鋳込まれたかのように生々しく観察できる。木組みの構造体の中を上へ上へとよじ登ると頭部の内側に至る。江戸期に鋳造されたこの頭部は、一辺80センチ前後のブロンズの板を別々に鋳造し、その一枚一枚を木組みに持たせながら組み立て、その場で鋳継いで接続したもので、外からはわからないが内部からは手に取るように観察できる。また、この頭部の上方には直径1メートルほどの伏せ鉢状の蓋があり頭上に出られるようになっていて、お身拭いの掃除の方々は大仏殿の高い天井から降ろした何本ものロープを命綱にして外に出て埃を払い、モッコ(藁製の籠)に乗ったりして、下からは手の届かないお顔や肩の掃除を進めていく。

新知見 このように長い年月をかけた我々の調査の中で、最も重要なことの一つは「仏体先鋳」の考え方である。これまでは蓮弁から先に鋳造したとする説が有力で、小学校の教科書でも図入りで紹介されていたように記憶する。しかし、我々は『東大寺大仏の研究』の中で「仏体先鋳」の立場をとり、幾つかそれを裏付ける根拠を上げ論じてきた。ここでは文字数の制限から省略するが、私が実感したある現象を紹介し、改めて「仏体先鋳」の考えを補強したい。それは、調査も終わりに近づいた十数回目のこと、申請していた科研がようやく採用され、立体写真を撮影する段取りを整えた。許可を得て撮影準備のため創建当初の蓮華座上面への三脚の設置に入った時のこと、周辺を人が歩くたびに三脚に付属する水準器が波打つ現象が起こった。蓮華座上面が微かにではあるが揺れている。もし蓮華座から先に鋳造されその上に連続して仏身が乗る形とすればこのような「揺れ」は起こり得ないはずである。このことは、先ず、安定した強固な土台の上に大仏本体が鋳造され、その後、蓮華座が本体を囲むかたちで、部分的に鋳造されたという何よりの証とはならないだろうか。

しかしながら、まだまだわからないことが山積している。前に述べた通り、仏体の腹部より下は土が詰まっており内部からの観察は不可能なため、隔靴掻痒の感が免れない。また、記録上では金と水銀の用量が記載され、蓮弁の一部には鮮明に塗金が現存しているにもかかわらず,はたしてその方法がアマルガム塗金であるのか、金箔押しの可能性があるのかもまったく未解決である。などなど、おこがましく調査だ、研究だ、新知見だなどといっても、まさに、いまだにお釈迦様の手の内にある悟空さまなのかもしれない。 

「東西、用語の張り合い」・・・遠藤喜代志

私の鋳金との出会いは、九州の大学である。そのとき指導を受けた教官は関東で修業した人であったので、当然、その技術、また用語は関東のものであった。後日、私自身も関東に行って勉学する機会を得、日本の伝統的な鋳造技術を身につけた気持ちになっていた。それからさらに年月が過ぎ、九州に戻って茶釜を作る工房に職を得ることになったが、ここでの指導者は関西仕込みの職人さんであった。ある時、私の発した言葉でその職人の表情が変わった。「(私)さねがたですね。」「(職人)いや違う。つちどもだ。」漢字で書くと「実型」と「土型」で、ともに素焼きの鋳型の外枠のことである。これを期に、私は関東と関西で用語の違いがあることがわかり、その背景に、鋳物に対する考え方の差というものがあるように感じるようになった。さらにいえば、自分のところこそが正しく最高のものであるという自負心をしっかり持つことによって、危険で、きついこの仕事が人生を掛けるに値するものだと日々言い聞かせているように思えた。ささやかな例だが、関西の釜師は、茶釜の内底に「鳴り(または煮え)」という鉄片を付けて湯が沸く時の音を楽しんだが、少し前まで関東の釜師は、それを付けると湿気が残り錆びやすくなるとして嫌っていたそうだ。まあ、意地の張り合いと言えなくもない。

私の手元に『鋳物現場用語集』(新日本鋳鍛造協会刊)なる手引書がある。出版年度は不明であるが、発行元の協会の出版期間からして昭和40年前後のものであろう。著者は大阪鋳物工業協同組合の理事長氏であり、高度成長期の真っ只中、活気を呈した鋳物工場の職工のために書かれた手引書である。学術的用語の解説もあるが、工場内で飛び交う職人同士の符丁の翻訳とでも言った方が良いものもあり、まさに「現場用語集」である。読ませたい相手を関西の職工達と限定したわけでもなかろうが、筆者の立場からおのずと関西の現場が主体となり、そこに関東との比較が記されることになる。いわく、「関東では不良廃品を<おしゃか>というが、関西では<がんばら>という。おしゃかは鋳物以外の他業者に用いられることばである。」「関東では<たまがね・目玉>ともいわれるらしい小さな球地金のことを<かんたま>という。」また関西の料理用語である<かやく>という語があったり、<へなつち>や<まね>などは解釈が微妙に関東と異なっている。

そして、極め付きは<えどっこ(江戸っ子)>である。東京の皆さんわかりますか。説明にはこうある。「型枠のあげさげの場合、(中略)一方を少し先にあげることがある。それを江戸っ子であげるという。関東弁は終わりがあがる。神田の生まれで江戸っ子だといえば、片方の肩があがっている。」ということだ。まさに浪花鋳物師の面目躍如たるところだ。符丁は、職人の閉鎖性と見る向きもあろうが、信頼できる仲間の絆を確かめるための共通語と言うこともできよう。

ところで、あなたの一番好きな符丁は何かと問われたら、私はためらわずこう答えるだろう。「あとぶき(後吹き)です。」これには東西の差は無いと思います。

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